大袈裟なタイトルですが、誰でも過去を振り返ると、「誰か大切な人に出会った」「ライフワークとなる事との出会い」「人生の重要なターニングポイント」など、始発点、転換点、分岐点・・重要な瞬間があるものだ。
私の場合は、まず中学3年生の秋・・。
音楽好き、歌好きの両親の影響で、というか音楽教育に熱心だった両親は、長男である私を、幼稚園から音楽教室、小学校からエレクトーン教室などに通わせた。
中学に入って、ブラスバンド部に入りアルトサックスを始めた時、どの程度の値段だったのか覚えてはいないが、両親はちゃんとした楽器を買ってくれた。
そして迎えた高校受験、普通高校に行こうか音楽高校に行こうか、大いに悩んだが、中学3年の秋に地元浜松の音楽高校に受験相談に出掛けた。
頑張って練習を積み重ねてきたサックスを、音楽高校の先生に聴いてもらえる・・
自分の楽器を抱えて、緊張の面談に向かった。
しかし、そこで言われた言葉は、意気揚々と将来に向けて、希望に胸を膨らめていた私にとって、大きな衝撃だった。
「牧野さん、ごめんなさい・・本校にはサックスの先生が居ません。」
ええーっ!
代替策として、クラリネットはどうか?・・ピアノ科はどうか?・・作曲?楽理?
もちろんクラリネットは一度も吹いた事は無いし、エレクトーンは弾いてきたが、ピアノは触ったこともない、まして作曲、楽理?・・とんでもない。
そういう事で、これはご縁が無かった、諦めよう、普通高校進学に切り替えよう、と思い、失礼しようとしたその時、まさに運命の一瞬があった。
面談室の隣の教員室から、声楽の恩師、古屋先生から声が掛かった。
「ねえ君、ちょっと歌を歌ってみないか!」
あれよあれよと言う間に、二階のレッスン室に拉致され・・
「何か歌ってみなさい」
何を歌えばいいか、まったく思い当たらない・・
自分はずっと器楽をやってきたから、歌なんか、殆ど歌ったことは無かった。
先生から言われたのは「赤とんぼ」・・。
♪夕焼け小焼けの赤とんぼ~♪
カスカスの息声、蚊の鳴くような小さな声、しかも・・
♪こやけぇ~の♪ 高音は喉が上がって、思いきりひっくり返る。
情けない、実に情けない声を出し、歌い終わって先生が一言。
「い、いいじゃないか! 歌をやってみんか?」
はぁ?・・こんな歌で?こんな声で? ウソだろぉー。
絶対に、無理だな・・と言われるんだと思った。
キョトンとしている自分に、「君はいいものを持っている!」てことで・・
半信半疑のまま、僕は受験まで、先生のお宅に声楽のホームレッスンに通い、目出度く?音楽高校に進学した。
今思えば、その時の先生からのお声掛けが無かったら、先生がもしその日、その時教員室に居なかったら・・と考えると、自分の運命の一瞬だったと思う。
ずっと、そう思い続けてきた。
しかし・・つい最近になって、それが本当に運命の一瞬だったか、疑わしくなった。
10年ほど前、奉職している音楽大学で、学生募集の為の広報を任された事があった。
少子化に伴って、音楽大学に進学する高校生が極端に少なくなった為、各音楽大学では募集活動を活発にするようになった。
一人でも多くの学生を・・と必死だ。
そんな時、ふと自分の高校受験の事を振り返った。
我が母校、信愛学園高等学校音楽科(現:浜松学芸高等学校)は50余年の歴史のある学校だが、一学年1クラス、毎年30~35名の学生が入学していた。
そのうち男子生徒が3~6名だった。
私はその9回生。
私のクラスは何と、極端に生徒数の少ない学年で、全部で17名、そのうち男子は2名。
つまり開校10年を迎える前に、何故か、およそ半数に激減してしまったのだ。
もちろん翌年からは回復している。
多分、この年は秋頃から学校を挙げて、募集活動を必死で行なったのに違いない。
今頃の話では無く、ベビーブーム世代の話だ。
そんな事を考えると、じつは色々見えて来る事がある。
恩師、古屋先生は、実はたまたま偶然、あそこに居たのでは無く、本当は待ち構えていたのではないか?
そして、私のあの情けない、しゃがれ声、蚊の鳴くような声、見事にひっくり返った声を聴いて下さっての、あの一言、あのコメント・・。
「い、いいじゃないか!」
これは、じつはウソだったんじゃないだろうか?
いや、こんな邪推、無礼な疑いは絶対してはいけない・・。
何にせよ、今の自分が有るのは、あの一瞬があったからなのだから・・。
感謝の気持ちしか無い。
じつは、その運命の一瞬、声楽として歩み始める、まさに第一歩の歌声・・
♪ゆうやぁけぇこやけ~ぇのぉ♪
あの情けない声の、証人がいる。
当時、高校3年生だった黒田晋也先輩(テノール、二期会、オペレッタ研究家)がレッスン待ちで、その場に居合わせた。