只々、感謝。(3)本気になってくれる人

副作用の弱い抗がん剤を服用して、喉の影響も無くなり、何とか歌えるようになったが、僕にはオペラ歌手として致命的な症状が残った。
自分の足で立つ事も、動く事も歩く事も出来なくなってしまったのだ。

それは、オペラ歌手としての舞台表現、身体を使っての演技は出来なくなったことを意味する。

思い返せば自分は若い頃から沢山の舞台を踏ませてもらった。
数々の素晴らしい公演に出演させてもらった。
著名な外国人歌手とも共演させてもらってきた。
もう良い歳なんだし、オペラは引退と思えばいいじゃないか。
歌える喉が戻って、コンサートに出させてもらえるだけでも十分に幸せだ。
オペラ出演は諦めよう。
そう自分に言い聞かせてきた。

そんな折、友人のバリトンの泉良平さんと会った。
彼とは発声の考えを同じくする親友だが、松葉杖姿の哀れな自分の姿を見せるのは恥ずかしく、これが今の自分の姿であり、これからはこの姿で生きていくんだからと決意が必要なほど、とても辛く勇気のいるものだった。

その時の僕は、同じ藤原の団員として、同じオペラ歌手としてバリトンとして、彼に情けない泣き言を言ったのかもしれない。

「もう僕は引退するよ。」

照れ笑いしながら言った、AB型的な自虐のセリフだったが、そう言われた彼はさぞかし困った事だろうと思う。
何とも返答のしようが無かった事だったと思う。

暫しの沈黙を破って、彼は顔を真っ赤にして怒るように言った。
「何を言ってるんですか、僕が引退なんてさせません。コンサートを企画しますから絶対に歌って下さい!」
なんて良いヤツなんだろう。
咄嗟に口から出たその言葉に、僕は涙が出るほど嬉しかった。
しかし彼の気遣いに応え、その嬉しい言葉に即答出来るほど、自信を持って歌える状態では無かった。
それを察した彼は、「歌えなくても、出てくれるだけでも良いですから・・」
そう言ってくれた。
その後、僕の不安を余所に話はどんどん進んで行った。